−南薩線の沿革−
人の出会いも 別れも 喜びも 悲しみも南薩線とともにありました。

南薩線(正式名称=南薩鉄道線)は、鹿児島本線伊集院駅から分岐し、薩摩半島西部を南に、枕崎までの2市4町49.6kmを約1時間40分で結んだ、日本最南端の地方鉄道(当時)でした。
その歴史は古く、1912年に会社設立、1914年4月1日には伊集院−伊作間で営業を開始しました。同年5月10日には加世田まで開業し、前年に鹿児島−東市来間が開業した鹿児島本線を介し、全国各地と結ばれました。

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In Sep/1981

伊集院(Ijyuuin)

 

石敢当(石敢當)

 

日置(Hioki)

 

 

加世田のまちを一変させた鉄道は、その後加世田−薩摩大崎間を開業し、1931年には念願の枕崎まで開通しました。 先人達が私財を投じ完成させた鉄道は薩南地方の流通・文化に寄与し、人々に"南薩線"と親しまれました。

6.21豪雨

戦後まもなく、鹿児島に本社を置く商社が株を買い占め、南薩地方進出の足掛かりとし、後に社名を鹿児島交通に改めました。 初期にはディーゼル動車キハ100の導入など、積極的な経営もみられましたが、'60年代になると一転し不採算路線の切り捨て、その場凌ぎの合理化に収拾しました。
1983年6月21日、南薩地方を襲った”加世田豪雨”が南薩線に致命的な被害を与えました。住民は存続を求め、沿線市町で救済案を示すも、会社の意思固く、1984年3月17日、70年の歴史が閉じられました。

 

加世田(Kaseda)

 

 

 

 

 

 

'82年秋のダイヤ改正、1本の列車削減は、長年に渡り職員を採用しなかったことによる乗務員不足が表面化したものでした。

1982年12月、突如鉄道線の廃止が通告されました。
その後も、運輸省(当時)への申請が出されぬまま列車の運行は続きました。 しかし、施設は日増しに老朽化し、このままでは行き詰まることが誰の目にも見えていました。

In Mar/1983

枕崎(Makurazaki)

 

開聞岳と菜の花

 

この頃になると単行で荷物を扱った

 

吹上浜の夕日

 

仁王像

 

吹上浜YHの見送り

 

 

 

 

日置の田の神

長いこと、YHの武家屋敷門を飾った写真です。

1983年6月の水害の後の写真。
日置−加世田間の運行となり、夜は列車出発時刻まで、ホームの明かりを消して節電しました。

南薩線の廃止が確定し、最終日がいつになるかの知らせが届いたのは、2月の寒い日でした。
その日は吹上浜へ戻ることができませんでした。

In Oct/1983

 

 

 
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さつま湖(Satsumako)

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