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December.07.2021

緑なき島/ 4

30号棟の「1/30の模型」今日は人口密度世界一の活気溢れる島の様子や、上陸ツアーでは見ることのできない立入禁止区域など、巨大スクリーンやプロジェックションマッピングで体感できる(ながさき旅ネットより)デジタルミュージアムを中核に軍艦島の文化と生活を語り継ぐ軍艦島コンシェルジュ(ユニバーサルワーカーズ)のプレミアムツアーに参加しました。
端島(軍艦島)は長崎港に架かる女神大橋の最大支間長と同じ南北480m、東西160mの島で、つまり女神大橋の主塔間にすっぽり収まってしまうような小さな土地に、最盛期には5,200人あまりが住んでいたわけです。

西日を浴びて
左から70号棟(端島小・中学校)、戦中(S19〜)に築かれた65号棟北棟、10階建ての南棟、手前に端島病院(白い建物は隔離病棟)、神社(1号棟)より高く、一際立派な3号棟、南の31号棟などが目視できます。
海底水道取り込み口
1957年、給水船に代わり、日本初の海底水道が三和町岳路ー端島間(6.5k)に敷設されました。
古くは野母半島からの野菜船の荷揚げに使われた場所で、島内に入り込んだ海水の排水口も兼ねていました。

1916(大正5)年に完成した30号棟は当初、世帯持ちの坑内夫(採炭夫)の社宅として建てられました。今では6畳1間、共同トイレのレイアウトは考え難いですが、風呂、トイレ、炊事場までもが共同であることが珍しくなかった時代、最先端の技術とは対照的に、居室は土間のある長屋形式で、巴形に配置されています。当時の大阪朝日新聞・九州版は「各戸四畳半若くは六畳の室を備え一戸毎に炊事場も付随して居るから個々独立したる生活を営み得るのである、」と伝えています。
※ 戸別にかまどがあり、流しは共用です。
排煙は2戸毎に、屋上吹き抜けの周囲の突出物(煙突)から排出されます。

右から30・25・31号棟
30号棟南側(写真手前)の細い窓と西側の配管が残る部分がトイレで、その奥に回収口より上が剥がれ落ちたダストシュート、さらに1~4階の居室部分に同潤会風の出窓を確認できます。
25号棟にはスナックが入居、31号棟は防潮棟であり、郵便局や共同浴場がありました。
内海側(鉱業所側)です。この島では住宅棟は外海に面して建てられ、防潮の役割を兼ねていました。中央の岩礁部分だけが元の姿です。
東側の防潮堤の高さが満潮面の5m程度なのに対し、外洋(東シナ海)に面した西側防潮堤の高さは10~13mあり、全長・全高に対する 絶妙のバランスが、その後も三菱社が意識したかは不明ですが、1921年当時三菱重工業長崎造船所で建造していた軍艦「土佐」に例えられたものです。

2日間好天に恵まれ、海が綺麗だった。47年前の海は、もっと黒かったであろう。
常盤ターミナルに戻ると、今晩出航を予定していた新門司港発横須賀行きフェリーの欠航を知らせるメールが届いていました。
関東地方には明日午後低気圧が接近し、海上が荒れるようです。

ひとまず出発前にマイスターより勧められた清風堂本店のカステラを買い求め、荷物を預けたホテルに戻り、博多までは本日移動することにしました。
来年秋の長崎新幹線部分開業により終焉を迎える在来線特急かもめの指定席を早割で取得していたためで、ホテルWi-Fiを使いフェリーの手続きと、今夜の宿、明日の博多から小倉までの高速バスなどを手配しました。

時間に余裕があるので長崎駅まで歩くと以前の面影はなく、原っぱと化した整備予定地の150m先に、新駅がありました。
数年後には新しい商業圏が誕生するであろう、既存の街はどう変わるのでしょう。
写真右のぽつんと取り残された建物(おそらく解体されるであろう)には、長崎駅前交番がありました。

新幹線開業後の施設分離を見越してか、構内にはキオスクがなく、駅弁も販売しておりません。

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