June.10.2012
Sun Princess来航に向けて
アクロバットを取り入れた幻想的なプロダクションショー”Mystique”(ミスティク)と共にSun Princessがデビューしたのは1995年12月2日のことであった。
クルーズの新しい時代を予感して日本を発ち、処女航海前夜Fort Lauderdale入りして眩いばかりの美しい姿を目にした私は、翌日タクシーを遠回りさせ、対岸のヨットハーバーにて出航前の彼女を撮影してから乗船した。
Sun Princessのキャッチコピーはdream come true、次世代を見据えた数々のアイデアが盛り込まれていた。
例えば海側の70%を占めるバルコニー付きの標準客室、造船技術の進歩した今日でこそ客船のバルコニーは広く普及しているが、当時は一部の船の上位クラスに存在するのみであった。このバルコニーは現在多くの客船に見られる客室間が1枚のボードのみで仕切られたものではなく、開口部から余程身を乗り出さない限り隣室とのプライバシーが保たれるエレガントなものである。
’90年代に入り急速に大型化の一途をたどる当時のクルーズ船では、どこへ行っても長い行列が出来ているという悩みを抱えていた。
Sun Princessは設計段階から徹底した動線の研究を行い、眺めの良いリドデッキ前方のホライゾンコートは24時間オープンして観葉植物が目を楽しませ(当時)、ブッフェは両舷どちらから入場しても同じものを、通路を邪魔することなく料理をチョイスできるようブッフェ台は内側に設けた。プロムナードデッキには収容規模の同じシアターを両端に配置、一方でミュージカルを、他方でコメディーショーを演じ、時間と場所を指定したチケットを配って入れ替えた。ダークウッドのパネルとエッチングガラスを用いた、温かみのあるメインダイニングルームはゆったりしており、エメラルドデッキとプラザデッキにほぼ同じデザインのものが設けられ、キャビン番号で振り分けた最初の船である。(乗船後にメートル・ディを通して変更は可能)
英国P&Oの色濃かったPrincess Cruiseは材質にもこだわり、シトマークルーズから引き継いだドルフィン型の2隻とは対照的に木や真鍮、イタリア製タイルなどの天然素材をふんだんに用い、アメリカ人好みの華やかさとイギリス人好みの落ち着いた雰囲気を融合させた。
全周プロムナードを備え、チーク材が敷き詰められ、スパに続くAftのプールに天蓋を設けた。
また77000トンは当時の技術ではパナマ運河を通行できる最大サイズにした結果であり、これ以上大きい船を造れば、大西洋と太平洋を行き来するのに、南米大陸の端をまわらなければならなかった。
この船の処女航海には三十数名の日本人が乗ったであろうか、当時はまだ一般人がネットで日本からクルーズを申し込めるような時代ではなかったし、欧米クルーズ各社も外国人を乗せることに疑念を抱いていた。処女航海には米国で人気を博したTVドラマ、ラブボートのキャプテンMerrill Stubing Jr(メリル・スチュービング Jr)役であるGavin MacLeod(ギャビン・マックロード)氏も乗船していたから、米国本社を説得し多くの日本人乗船を果たしたクルーズ・バケーションの先見と熱意がカーニバル・ジャパンの創設に繋がったと推測する。
なお初代船長はAugusto Lagomarsini氏で、彼はオードリーヘップバーンが名付け親である初代Star Princessのキャプテンとして世界的に有名で、白い顎鬚を蓄えた彼が乗船するからクルーズを申し込むリピーターもいるくらい、Princess Cruiseの顔として人気があった。
“ある掲示板”の記事から