December.31.2021
ゆく年くる年
| 2020.11.24、地球一周メンでギタリストのRyotaさんの出演するZipRipFuzZのライブが赤羽ReNYであり、その夜共に鑑賞したSさんと新宿バスタから旅立ち、彼の弟が働く宮島のゲストハウスを訪ねた。 ここでは年末年始の国民的行事といわれる音楽イベントとゆく年くる年をイメージしてみました。 |
Get the best cruise vacation
December.31.2021
| 2020.11.24、地球一周メンでギタリストのRyotaさんの出演するZipRipFuzZのライブが赤羽ReNYであり、その夜共に鑑賞したSさんと新宿バスタから旅立ち、彼の弟が働く宮島のゲストハウスを訪ねた。 ここでは年末年始の国民的行事といわれる音楽イベントとゆく年くる年をイメージしてみました。 |
December.08.2021
貝塚公園に展示されている、九州特急に使われた寝台客車を見に行きました。
今から半世紀前、九州各地と東京を繋いでいたのは東海道・山陽路をひた走る幾本もの夜行列車でした。
その中でも、当時最新鋭の、空調付き固定編成の20系寝台列車は※1)動くホテルと称され、人々の憧れでした。
※1.1898年の山陽鉄道時代から1976年に廃止されるまで、優等列車には「列車ボーイ」といわれる給仕が乗り、寝台車ではベッドメイキング(今でいうターンダウン)などのサービスがありました。
滞在が伸びたので、西鉄に乗り換え大牟田に行き、もう1ヶ所の世界遺産、三池炭坑宮原坑を訪ねました。
高島、端島が三菱であったのに対し、三池炭坑は三井財閥が明治政府より購入して近代化が進められました。

炭坑は地下水との闘いで、昭和6年までは国の内務省が設置した三池集治監に収監された囚人を採炭労働に使役させていました。
現存する第二竪坑はその後坑内水の汲み上げと定期点検に使用され、1997年の三池炭坑閉山後も蜘蛛の巣状に張り巡らされた坑道を伝って機械を運び出すのに、2000年まで稼働しました。
廃墟を観光資源化した長崎市と異なり、大牟田市は三井からの無償譲渡提案を断ったといわれますが、幾つかの施設が世界遺産に登録されたことにより、国から管理を委託され公開しております。
同市出身で無料ガイドを務める川口晴久氏に案内していただき、炭坑節に見送られ、帰路につきました。
December.07.2021
今日は人口密度世界一の活気溢れる島の様子や、上陸ツアーでは見ることのできない立入禁止区域など、巨大スクリーンやプロジェックションマッピングで体感できる(ながさき旅ネットより)デジタルミュージアムを中核に軍艦島の文化と生活を語り継ぐ軍艦島コンシェルジュ(ユニバーサルワーカーズ)のプレミアムツアーに参加しました。
端島(軍艦島)は長崎港に架かる女神大橋の最大支間長と同じ南北480m、東西160mの島で、つまり女神大橋の主塔間にすっぽり収まってしまうような小さな土地に、最盛期には5,200人あまりが住んでいたわけです。
1916(大正5)年に完成した30号棟は当初、世帯持ちの坑内夫(採炭夫)の社宅として建てられました。今では6畳1間、共同トイレのレイアウトは考え難いですが、風呂、トイレ、炊事場までもが共同であることが珍しくなかった時代、最先端の技術とは対照的に、居室は土間のある長屋形式で、巴形に配置されています。当時の大阪朝日新聞・九州版は「各戸四畳半若くは六畳の室を備え一戸毎に炊事場も付随して居るから個々独立したる生活を営み得るのである、」と伝えています。
※ 戸別にかまどがあり、流しは共用です。
排煙は2戸毎に、屋上吹き抜けの周囲の突出物(煙突)から排出されます。
2日間好天に恵まれ、海が綺麗だった。47年前の海は、もっと黒かったであろう。
常盤ターミナルに戻ると、今晩出航を予定していた新門司港発横須賀行きフェリーの欠航を知らせるメールが届いていました。
関東地方には明日午後低気圧が接近し、海上が荒れるようです。
ひとまず出発前にマイスターより勧められた清風堂本店のカステラを買い求め、荷物を預けたホテルに戻り、博多までは本日移動することにしました。
来年秋の長崎新幹線部分開業により終焉を迎える在来線特急かもめの指定席を早割で取得していたためで、ホテルWi-Fiを使いフェリーの手続きと、今夜の宿、明日の博多から小倉までの高速バスなどを手配しました。
時間に余裕があるので長崎駅まで歩くと以前の面影はなく、原っぱと化した整備予定地の150m先に、新駅がありました。
数年後には新しい商業圏が誕生するであろう、既存の街はどう変わるのでしょう。
写真右のぽつんと取り残された建物(おそらく解体されるであろう)には、長崎駅前交番がありました。
新幹線開業後の施設分離を見越してか、構内にはキオスクがなく、駅弁も販売しておりません。
December.06.2021
出島号の出発が7時30分になるため、昨夜は小倉ステーションホテルに宿泊して、高速バスにて九州・長崎高速自動車道を経て長崎市入りしました。
先ずは電気軌道に乗り大波止で下車、江戸町の魚たつでランチの握り15貫セット(あら汁付)を食べ、今晩の宿泊先、ホテルモントレへ荷物を預け、高島海上交通の午後の軍艦島上陸ツアーに参加しました。
元船桟橋には就航船「ブラックダイヤモンド」(2010年建造)が見えますが、チェックインはアパホテル向かいの事務所で行います。
「それいゆ」で来たことを伝えると、即座に長崎で造った船であると返ってきて、会話の糸口が掴めました。
流れとしては最初に軍艦島とゆかりのある高島に寄港、石炭資料館訪問と、ジオラマを使った説明があり、その後海上から軍艦島をひとまわりして、上陸します。
季節的に異外ですが、地理的、物理的に北寄りの波のほうが、上陸しやすいようです。
これが軍艦島の世界遺産です。
えっ?と思われるかもしれませんが、大正末期までは主に長崎特有の赤土と石灰の混合物を凝固剤として、天草産の岩石を積んだ「天川」と呼ばれる構造で築造されております。コンクリートを巻き立て補強しつつ現在まで使われております。
建築学上貴重な建築物は世界遺産に含まれておりません。
理由は資産対象の期間を1850年から1910年に区切ったためで、登録に際し植民地時代の強制労働の歴史を切り離すためだったといわれます。
坑木の荷揚げを行っていた15tクレーンが据えられていた台を支えるコンクリートは瓦解(がかい)しておりますが、石積護岸は閉山時の姿を保っており、明治期の土木技術を垣間見ることができます。
市内に戻ると日も翳り、フロントでルームキーを受けとり、今年で創業90年を迎える長崎おでんの桃若にて晩酌しました。
端島(軍艦島)には6年前にも上陸を試みましたが、ドルフィン桟橋の着岸に成功したものの、海水が桟橋階段を駆け上がってしまい、上陸許可が降りませんでした。(階段は元々のものではなく、見学コース整備時に、桟橋の中央部分が階段上に削り取られたものです。長崎市の規定では波の高さが0.5mを超える場合、上陸はできないと定められており、10k程離れた伊王島に設置されている波高計を基準としています。)この間にまるで島全体が解体されているかの如く崩落が進行したことに、驚いています。
そして、建築家ル・コルビュジェが鉄筋コンクリートによる住宅建設方法であるドミノシステムを考案※1)した僅か2年後に、日本人により建てられた日本最古のRC(鉄筋コンクリート)集合住宅も風雨と歳月に晒され危機的状況であると知らされ、記憶と共に失われる前に、兎にも角にも再訪しました。
※1.彼が近代建築の五原則を構築する中でクック邸を建てたのが、1926年です。
December.05.2021
季節外れの台風21号は南鳥島近海で熱帯低気圧に変わりました。
本日の新門司行き船名は「それいゆ」です。
横須賀と言えばカレーの街と誰もがイメージするほど定着した海軍カレー(1,200円)を出航ラウンジに設けられた軽食コーナーでいただきました。
ここの運営はフェリー会社が行い、海軍カレーパン(250円)なども取り寄せているとのことでした。
よこすか海軍カレーは明治41年の海軍のレシピ「海軍割烹術参考書」に基づき調理されており、カレーライス、牛乳、サラダの3点セットに薬味としてチャツネを付け提供されるものと定義されています。
原則は横須賀市内でしか提供出来ず、フェリー船上での提供も例外と言えます。
昨年から何度かコロナ下でのクルーズを試みましたが、思わぬ形で船旅の機会を得ました。
December.01.2021
世界遺産マイスター第一期生の称号を持つ片岡英夫氏からアナウンスとアドバイスをいただき、急遽長崎に行くことになりました。
奇遇にも首都圏の横須賀(神奈川県)と九州の新門司(福岡県)の間に本年7月1日に就航した2隻の大型高速フェリーは全長が222.5mに及ぶことから三菱重工業長崎造船所にて建造されたものです。
急がぬ僕は日程の調整を図るとともにプチ贅沢な時間を旅程に組み入れました。
「緑なき島」は現在でもDVDやYouTube動画で視聴が可能である、NHKが1955年11月17日に放映した端島炭鉱(軍艦島)のドキュメンタリーです。(「緑なき島」にはもうひとつ、1948年11月8日に松竹が配給したセミドキュメンタリー映画があります。)
近年、坑内の映像は小ヤマであり端島炭鉱ではないと、元島民の証言や残された資料から、矛盾が検証され物議を醸しています。なぜなら、この記録映像は世界中に拡散し、軍艦島を思い描く基となってしまったからです。
いっぽう、戦後外国人労働者が一斉帰国させられ、戦前の事情を知らない復員者、戦災者、引揚者などが多数採用されました。さらに1964年の坑道自然発火事件により人口の急激な減少があり、新規採用には待遇の大幅な改善がはかられました。これらのことから、印象的なイベントとして語られることはすべての元住民が体験しているわけではなく、歴史的に軍艦島について語ることを困難にしています。