May.25.2019
アウシュビッツに来て2日目、主に強制労働に使われた第一収容所を訪ねた。
ナチスは、自分とその家族を守ろうとする人間の本質を巧みに利用した。
例えば、長編成の貨車がユダヤ人を満載しているのが目撃されても、大多数の人は傍観していた。
人の命を助ける医者は、ガス室へ送る人びとの選別に専念した。
収容所内では、身分が細かくカテゴリー化され、人が人を殺した。
一方、収容所という絶望的な環境に於いても人びとに手を差し伸べた、強制収容所のバイオリニストと呼ばれたヘレナ・ドゥニチ−ニヴィンスカや、無作為に決められた受刑者の身代わりとなり、餓死刑を受けた、マキシミリアノ・コルベ神父のような人物も、僅かながら存在した。彼は1930年に、長崎の大浦に宣教に訪れている。
このように対話のなかったこと、周りに優しく出来なかったことが、今、私たちに後悔として残っている。
今回の一枚は、2006年に出版されたJohn Boyenの小説を、Mark Herman監督が2008年に実写化した、「縞模様のパジャマを着た少年」の、シュムエルという8歳のユダヤ人の子に酷似した、とても気になるショットである。
この作品は賛否意見が分かれ、親の転勤でキャンプに越して来たナチスの指揮官の息子ブルーノは、ある日冒険に出て、塀を隔てて一人でいたシュムエルと仲良くなるが、その後シュムエルが使用人として家に来たとき、パンを与えたのが兵隊に目撃され、関係を問い詰められて恐怖心から、シュムエルを裏切って嘘をついてしまう。
心を傷めたブルーノは、償う機会を求めシュムエルの消えた父親を探しに、塀の中に入ってしまうが
少なくても子どもの目から見て、ユダヤ人もドイツ人も同じ人間であったことは真実であろう。
- Local time May 24 (Fri) 21:00
May.24.2019
アウシュビッツ(Auschwitz)はクラクフから南西およそ60Kmに位置するポーランドの都市、オシフィエンチム(Oświęcim)が発音しづらいためドイツ語読みしたもので、1940年にナチスドイツにより、強制収容所が建設されたことで知られる。
第二次世界大戦中、ナチスの軍需庫として使われたことにより建物の破壊を免れ、内部を復元された町で唯一のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が、今はユダヤ博物館と教育センターを含むアウシュビッツユダヤセンターの一部として財団により管理されており訪問したが、そこにOświęcimを故郷とするユダヤ人の姿はなかった。
何故なら、開放後も根強く残る反ユダヤ主義者による暴力を恐れたユダヤ人は各地で土地や家を捨て難民となり、その一部はパレスチナへ脱出(当時は英国により移住を制限されていた)、パレスチナのユダヤ人は1948年に国連採択に従いイスラエルの独立を強行して第一次中東戦争になるが、翌年にはエジプト、レバノンなど周辺国と休戦協定を結び、国連加盟の承認を得ている。
この問題のその後については割愛するが、ヨーロッパのユダヤ人々口が減ったのは1960年ころからといわれている。
ホロコーストの背景に、少数派であるユダヤ人への偏見や嫌悪があったことは否めない。
ユダヤ人とは一般的にはユダヤ教を信仰している人々をユダヤ人と呼んでおり、ユダヤ人という人種があるわけではない。
しかし国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチ党)政権下の1935年に制定されたニュールンベルグ法は自分たちの優位性を示すためユダヤ人への差別を正当化しようとして生まれた法律で、プロパガンダのもと、ホロコーストに及んだとみられる。
1939年当時、コミュニティは400年以上の歴史があり、市内には20以上のsynagogues(シナゴーグ)があった。
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Haberfeld家は18世紀後半にOświęcimに定住し、Jakub Haberfeldは1804年、蒸留ウォッカと酒類を製造する、当地で最初の工場を設立した。
彼はOświęcimで最も影響力のあったユダヤ人家族のうちの1人である。
工場を引き継いだAlfons Haberfeldと彼の妻、Felicjąは、NYの世界博覧会の帰り道、第二次世界大戦が勃発し、ポーランドに戻ることができなくなった。2003年、工場は解体された。
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- Local time May 23 (Thu) 22:00
May.23.2019
日中は、約1,100人のユダヤ人の命を救ったと伝えられているドイツ人実業家、Oskar Schindler(オスカー・シンドラー)の工場であった博物館などを訪ね、ホテルへの帰路、40ユーロを現地通貨のズウォティに両替した。
5人で再び旧市街へ戻り、2軒のバーにて深夜2時頃まで歓談した。
ビール、ワインやカクテル、タクシーを含めた消費は52.6ズウォティ(約1,500円)だったので、図らずも西欧と東欧の経済の差を体験した。
シンドラーの工場で働いて戦争を生き延びた、いわゆるシンドラーのリストで救われた人たち。
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クラクフの町がナチスに占領されていく様子を再現している。
旗が描かれた下の文字、Feierとは祝典。
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「ヨーロッパはもうその顔を見たくない」
ドイツの宣伝ポスター。
初期のもの(左)はユダヤ人差別を目的とし、後のプロパガンダのポスター(中央・右)は反ボリシェヴィキの性格を伝え、ドイツの味方になるよう呼び掛けた。
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彼は戦争に乗じてひと財産形成を目論みKraków(クラクフ)の金属加工工場を買い取り、ドイツ労働者党幹部に近づき、ghettoから安い労働力を雇い入れたりしてホーロー製品の製造を始めるが、次第にナチス党政権に不信を抱くようになり、出来る限り多くのユダヤ人を救済したいという願望のため全財産を投じる。(中略)戦況の悪化と共に、彼の元で働くユダヤ人にも危険が迫り、工場がドイツ軍司令部からも特別の格付けを承認されていたことにより、彼は女性や子どもも含め、それらが弾薬をつくるのに欠かせない労働力であると主張、雇用者リストの作成を秘書に命じ、チェコスロバキアの国境地帯(現在のBrněnec)に新たに軍需工場を手に入れて移送した。
この頃には中継地点における軍の混乱から、Vernichtungslager(絶滅収容所)に誤って輸送された者もいたが、彼は諦めることなくあらゆる手を尽くして救い出し、約1,100人(1,200人と表記されることも多い)の命を守り、6年に及んだ戦争の終結を迎える。
- Local time May 23 (Thu) 02:15
May.22.2019
アウシュビッツを訪ねるために、ウィーンを経由してポーランドのクラクフへオーバーランドした。
1939年、ナチスドイツが侵攻して、ユダヤ人が迫害に遭った、ポーランド第二の街である。
人影が少なく、時計を巻き戻したような暗い街並みを見て、何処か重たい空気を感じた。
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Title:Eros Bendato
Artist:Igor Mitora(1944-2014)
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PEST2014N
“Krakowiak”
2015年~就役の新しいトラム車両
愛称のクラコヴィアクは、クラクフの民族舞曲。
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- Local time May 21 (Tue) 23:59