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May.24.2019

Peace Boat’s 101st Gloval Voyage/ Day34

アウシュビッツ(Auschwitz)はクラクフから南西およそ60Kmに位置するポーランドの都市、オシフィエンチム(Oświęcim)が発音しづらいためドイツ語読みしたもので、1940年にナチスドイツにより、強制収容所が建設されたことで知られる。

第二次世界大戦中、ナチスの軍需庫として使われたことにより建物の破壊を免れ、内部を復元された町で唯一のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が、今はユダヤ博物館と教育センターを含むアウシュビッツユダヤセンターの一部として財団により管理されており訪問したが、そこにOświęcimを故郷とするユダヤ人の姿はなかった。

何故なら、開放後も根強く残る反ユダヤ主義者による暴力を恐れたユダヤ人は各地で土地や家を捨て難民となり、その一部はパレスチナへ脱出(当時は英国により移住を制限されていた)、パレスチナのユダヤ人は1948年に国連採択に従いイスラエルの独立を強行して第一次中東戦争になるが、翌年にはエジプト、レバノンなど周辺国と休戦協定を結び、国連加盟の承認を得ている。
この問題のその後については割愛するが、ヨーロッパのユダヤ人々口が減ったのは1960年ころからといわれている。

ホロコーストの背景に、少数派であるユダヤ人への偏見や嫌悪があったことは否めない。
ユダヤ人とは一般的にはユダヤ教を信仰している人々をユダヤ人と呼んでおり、ユダヤ人という人種があるわけではない。

しかし国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチ党)政権下の1935年に制定されたニュールンベルグ法は自分たちの優位性を示すためユダヤ人への差別を正当化しようとして生まれた法律で、プロパガンダのもと、ホロコーストに及んだとみられる。

1939年当時、コミュニティは400年以上の歴史があり、市内には20以上のsynagogues(シナゴーグ)があった。
Haberfeld家は18世紀後半にOświęcimに定住し、Jakub Haberfeldは1804年、蒸留ウォッカと酒類を製造する、当地で最初の工場を設立した。
彼はOświęcimで最も影響力のあったユダヤ人家族のうちの1人である。
工場を引き継いだAlfons Haberfeldと彼の妻、Felicjąは、NYの世界博覧会の帰り道、第二次世界大戦が勃発し、ポーランドに戻ることができなくなった。2003年、工場は解体された。
  • Local time May 23 (Thu) 22:00

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