May.01.2018
佐世保に入港、長崎県川棚町のこうばる地区に来ています。
静かな農村で今、県により石木ダムの建設工事が進められています。
春には菜の花、初夏にはゲンジボタルの乱舞、夏には子どもたちの川遊び、秋には黄金色に実った稲穂の収穫………、こうばる地区には四季折々の素晴らしい風景が今でも残っています。
こうばるはまた、絶滅危惧種のカスミサンショウウオなど、貴重な生き物が生息するホットスポットです。
このように、日本の原風景とも言える美しい姿を留めているのは、皮肉にもダム計画により、45年の間、不要な河川整備が行われなかったからです。
今、美しい棚田や畑も、約半世紀前※1)に計画された県営石木ダムの建設強行により、水の底に沈められようとしています。
※1. 野母半島の浄水場から炭坑で盛えた高島・端島に海底水道が開設された1957年当時の長崎は慢性的な水不足で、1962年には大村湾を横断する海底水道を敷設し、大村市から導水しました。
長崎県の人口はこのとき(1960年)がピーク(水道普及率80%未満)でした。
県がダムの予備調査に着手したのも同じ頃で、その後炭坑は人員削減を経て、国のエネルギー政策転換で閉山しました。(因みに石炭は安定資源であり、今も世界で消費される第一次エネルギーの27%を占めています。)
水道局の統計による給水人口は1986年(S61)には約150万8千人(この時点での水道普及率は94.9%)を数えましたが、その後は下降をたどり、2015年(H27)は134万5千人(水道普及率98.5%)、減少傾向が続いております。
広域水域圏では佐世保市、川棚町は県北、長崎市は県南に分類されておりますが、平成6年~7年の渇水時には島原市、千々石町(現、雲仙市)、東彼杵町、田平町(現、平戸市)に水源を確保して、佐世保、長崎両市を含む4市町への送水が行われました。
やれば出来る一方で、耐用年数を超えた水道管が14%もあります。
川棚川の洪水防止については、そもそも石木川は氾濫したことがなく、川棚川の支流の小さな川ですので根拠に乏しいのではないでしょうか。
客観的な根拠もない公共事業に、建設費と関連事業費を合わせて538億円が投入されようとしており、犠牲を強いられている人びとがいます。私たちは未来に何を残すべきか、問われています。
May.01.2018
今回僕は、見るだけの旅ではなく遊び体験することをコンセプトに、麗水KTXが開通する前の旧全羅線の廃線跡で、ペダルを漕ぎ南海の風景を満喫する海洋レールバイクツアーの企画を持っていたが、出航した直後は、若者がおらず、2〜4人乗り、3.5キロのバイクツアーなど、到底無理であろうと落胆した。
アームさんの部屋メン、そのまた知り合いと輪を広げ、僕を含めて3人のメンバーが決定したのは、麗水入港の前日であった。
M/V Ocean Dreamは、午前8時に麗水エキスポクルーズターミナルに入港、レールバイク以外の、足元に海の見えるケーブルカーのクリスタルキャビン、海鮮料理の情報などを、たいぷーが調べてくれていたので、カンジャンケジャン(カニのしょうゆ漬け)やヤンニョムケジャン(カニのオリジナル辛みそ漬け)も逃すことなく、内容の濃いワンデートリップになった。
April.30.2018
この船には同姓同名の水先案内人が乗船している。
しかも彼はソーシャルクリエイティブプロデューサーであり、長崎県川棚町こうばる地区のドキュメンタリー映画を制作した映画監督でもある。
彼は、大企業の大量消費を促すコマーシャルを作ることに疑問を抱き、社会の広告社として独立した。
彼の作品は、ふるさとの魅力を内外に発信すると共に、国家予算と公共事業に頼る市政から脱し、そこに暮らす人々が地域の良さを発見し、自信を持って、若者の移住やUターンできる環境を整え、最終的には地域自体がそれを継続していく(自生)ことを念頭に考えられている。
釜山出航後の船内は、関心を持てる企画が目白押しで、TABIPPOのライターも務めたアームさんの「キャンピングカーをレンタルしたアメリカ横断のお話」など、幾つかの自主企画にも参加した。
「今時の?若者が大好きなゲーム」は深夜帯にも拘らず、世界遺産マイスターであり、水先案内人を務める片岡英夫さんの参加もあって盛り上がり、時間を延ばした末、波へいに場所を移し、1時まで交流が続いた。
7デッキにお風呂(その名も世界湯 ♪)が、出来ました。
|
 |
April.29.2018
釜山の停泊は2日間あり、今日はひとり、五六島と海を見に出掛けた。
じつは地下鉄2号線に乗り、慶星大学・釜慶大学駅で降り、二妓台都市自然公園方面行きのバスでスカイウォークを目指した者が、もう一人いた。
スタッフのムギちゃんで、二人でトレッキングルートを往復2時間(約1/3)ほど歩き、釜山駅で別れ、気になっていたKTX駅構内の寿司(12貫12,000ウォン)を食べ、徒歩で戻る。
僕は今まで韓国を旅して、親切にされたことは数えきれないほどあるが、嫌な思いをしたことはない。むしろ、以前勤めていた会社の同僚とか思い返すと、なんで外から来た人にそんなに冷たい対応をするのかと言ったことはある。
韓国第二の都市、釜山の海は、日本のどの大都市にある海より、自然が残り、美しかった。
だが、ここから北東、直線距離にして僅か32kmには、古里原子力発電所が息を潜めている。
April.28.2018

M/V Ocean Dreamは2015年8月より共用開始した釜山港の影島地区の新しいクルーズ埠頭に着岸、釜山駅までは無料のシャトルバスが運行された。
パスポート返却後、入国審査開始の案内に合わせ、4人でグループをつくり、ピースボートセンターのある辺りで待ち合わせた。
僕には過去の地球一周で心残りなことが幾つかあり、ひとつは、出航前日まで、当時難病を患っていた母の介護に時間を費やし、寄港地について下調べする余裕がなく、自ら計画、行動することを避け、癒しとなったてっちゃんに頼り過ぎてしまったことだ。
釜山に入港が決まると、船内で土城までの地下鉄とマウルバスの経路を調べ、Mちゃん、Bちゃんを誘い、アームレスリング全国大会優勝経験のあるアームさんも加えた4人で甘川洞へのツアーを組んだ。
甘川洞は、朝鮮戦争を背景に独特な階段式住居が建ち並ぶ、文化的価値の高い場所であることから、文化村とも呼ばれている大変美しいところであるが、日本人の姿は殆ど見ない。
甘川の再生プロジェクトには、持続可能な社会物語の著者であり、韓国を代表する建築家のスン・ヒョサン氏やアーティストが加わり、スタンプ地図(販売)と村企業(ゲストハウスを運営)の収益が、老朽化した住宅のリフォームや地元住民への福祉サービスに充てられている。
僕にとっては、3年前のPeace & Green Boatに於いて、母を連れて旅した最後の場所でもあった。
チャガルチに向かい地下鉄で移動するが、デフォルメされたフリーマップを読み違えて佐川という駅で下り、誤りに気づくも佐川急便と関連があるのではという囁きから、地上を彷徨った。(笑)
意味不明な行動のあとUターンし、水産市場を一通り見学の後、市場外の安価な店で刺身を中心としたコース料理(1人15,000ウォン)を食べ、釜山国際映画祭が最初に開催されたことで知られる、BIFF広場の屋台でおもいおもいにスイーツを購入、タクシー(4人集まれば、地下鉄より安価なことが判明)で船に戻り1日目を終えた。
April.27.2018
機関長より、急なメンテナンスが必要との報告を受けた運航会社の判断により、本船は昨日、航路変更を決定しました。
かっては船の安全はすべて船長の責任でしたが、通信技術が発達した現在は、船と陸上が一体となって安全運航に責任を持つこと(船舶の安全運航の管理)が、SOLAS条約により義務化されています。
南北首脳会談が行われる日、そんな歴史が動くかも知れない日に釜山へ針路を取ることになるなんて奇遇です。
残念なことに、「今、韓国を訪れることの意味」という昨日の講座において、観光情報をもらえると勘違いしていたのか、何名かの方が途中で退席されました。
朝鮮戦争は、東西冷戦(アメリカと旧ソ連)によって引き起こされた悲劇のように、何となく理解しているつもりでしたが、そもそも大日本帝国が朝鮮半島を支配し、関東軍が駐留していなければ、ソ連が北から侵攻する理由はなく、米国が南から上陸して領有を主張することもなかったわけです。
アメリカとロシアは、第二次大戦の終結後、日本軍を武装解除するという名目で、38度線で朝鮮半島を二分したのです。

日本では8月15日を終戦記念日としておりますが、終戦の日は国によって、また、何を以って終戦にするかによって、異なります。
そもそも、終戦という言葉は戦争を終えるという意味ですから、ドイツでは、敗戦と解放という表現が用いられ、植民地支配を受けた国からみた場合も、それは解放であり光復であります。
April.26.2018
2日目の午前は企画の中止が相次いだが、午後は少し波も落ち着き、ピースボートと災害支援の歩みや、今回唯一、オプショナルツアーを選択した、長崎県川棚町のこうばる地区と、石木ダムについての講義などを聴いた。
ウェルカムセレモニーの会場入口で、もはや絶滅危惧種的な、東京の顔馴染みである数少ないヤングのMちゃん、Bちゃんと合流出来て嬉しかったが、彼女らもまた、地球一周の同じクルーズを予約している人が船内に8名いると聞き、大勢の中から1.000分の8を見つけるのは、雲をつかむようであった。

3日目を迎えた朝、こうばる地区を題材にしたドキュメンタリー映画、「ほたるの川のまもりびと」の先行上映会が、ブロードウェイラウンジで開催され、こうばるの豊かな自然と、人々の絆に感銘するとともに、訪ねることがひとつの関心ごとから楽しみに変わった。
April.25.2018
最高齢は92歳、最低齢は1歳であるが、10代〜30代は2%にも満たず、初日の晩に限定的なグループ交流会が開かれた。
地球一周においてはボランティアスタッフの参加により運営される船内チームは、総勢約50名と紹介のあったピースボートスタッフのみで組織され、ピースボート対お客さまという、中途半端な距離感を感じずにはいられなかった。
これも試行錯誤のひとつか。
彼女(M/V Ocean Dream)がはやく地球一周に出たがっているからなのか、天候も冴えない。
出航時刻が21時になり、見送りを期待はしていなかったが、出航セレモニーが始まると、くじらの背中(大さん橋屋上の愛称)にたくさんの黄色い灯りが、こちらを意識して揺らぐのがはっきりわかった。後に、過去乗船者やスタッフなどが、遠方から駆けつけ見送ってくれたことを知った。
December.15.2017
ノーベル平和賞は、過去の功績を讃えるために与えられるものではない。
未来への願いを込めて、贈られる期待であると、解釈するのだという。
November.1.2017 at Tokyo
ほぼ毎水曜日に様々なジャンルのスピーカーを呼び開催されるピースボート勉強会(地球大学の一環で乗船の有無に関わらず受講可能)、今回のタイトルは、ピースボートが2007年から活動に携わるICAN(International Campaign to Abolish Nuclear Weapons)がノーベル平和賞を受賞したことに伴う緊急企画、「今こそ聞こう 被爆者の声」である。
ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)とは、Wikipediaには、各国政府に対して、核兵器禁止条約の交渉開始・支持のロビー活動を行う目的で設立された国際的な運動の連合体であると記されている。
ピースボートが果たしてきた役割のひとつは、核兵器の非人道性の土台である、広島・長崎の被爆者たちの声を世界に伝えることであるが、メディアを含む大勢の人で埋め尽くされた広い会場に、被爆者の生の声を聞いたことがある人は半数もいなかった。
という僕も、被爆者の方から証言を聞く機会を得たのは、2年前に参加したPeace & Green Boatが、原爆が投下されて70年後の長崎に寄港したからであった。
「原爆が落ちた」という表現は適切でないようにおもう。正しくは、核爆弾は空中で炸裂するのであり、360度、摂氏何千度という熱線とすさまじい爆風が襲い、それは突き刺すように骨をも貫通する。
「闇」というキーワードにハッとした。
原爆の象徴とされる「きのこ雲」は空から撮影されたもので、被爆者は誰も見ていない。逆も見えてない訳で、その瞬間、何が起こったかを知っているのは、被爆者だけである。
昨年の第92回地球一周クルーズでは、第9回となる被爆体験を世界に伝える証言の航海(おりづるプロジェクト)が実施され、数名の被爆者の方が共に乗船され、世界各地で原爆被害の証言を行う一方、船内でも様々な企画が実施された。
そして今回、核兵器の非合法化と廃絶を目指すICANが国際的に評価され、ノーベル平和賞を受賞したことにより、核の非人道性を訴え続けた、広島や長崎の被爆者の声を東京でも聞く機会に恵まれた。
語り部ひとりひとりの体験を共有する、より多くの人に耳を傾け、知ることが大切であるとおもう。
被爆者の声は、決して過去の事ではない、私たちの住む地球には、
人類を破壊する1万5000個もの核兵器が置かれているといわれ、※1)「核兵器を保有する者たちは、全世界を人質に取りその恐怖を与え、私たちを安全にするどころか、核競争への参加へと他者を駆り立て、紛争を生み出しています。
核兵器は権力者が他者を支配するための大量虐殺的でありかつ自殺的な兵器であり、私たちが核戦争を回避してこられたのは、分別ある指導力に導かれたからではなく、これまで運がよかったからで、私たちが行動しなければ、遅かれ早かれ、この運は尽きてしまう」
と、I CAN 事務総長のBeatrice Fihn(ベアトリス・フィン)さんは述べています。
※1)At the Nobel Peace Prize Award ceremony held on 10th December 2017 in Oslo, Norway.
September.11.2017
共に旅したメンバーが、訪ねて来ると嬉しい。
僕は見返りに何かを貰おうとはおもわない。
今までもらった幸せに感謝し、それを少しでもバトンできれば十分だ。
家は人々の幸せを生み出すためにあり、母も、きっとわかってくれると考えている。
世界は、日本のように、だれでもパスポートを取得出来、好きなところに行ける国ばかりではない。
そういう国に生まれたこどもたちは、外の人と接する機会も少なく、たとえ数年に一度でも、ピースボートが寄港し、会いに来てくれることを望んでいる。
小さいころ、遠い親戚が従妹を連れてやってきたりすると、わくわくしたということはないだろうか?
ピースボートを共に出し、実際に自分が訪れた国で、目にしたことは強く印象に残る。
おもしろいことに、交流の仕方も世代により、折った折り紙を与える者から、子供たちと一緒に走り回り、ボールを蹴る者まで様々であり、僕の参加したクルーズでは、寄港先で独自の交流にトライしたり、帰国後にスタッフとなった者も多い。