February.25.2018
体重の軽い僕は、もともと旅の荷物は少なめであるが、近年はクルーズ中心の旅を続けていたから、ものの重量にはあまりこだわらぬ部分もあった。
しかし、今度の旅は、バックパックで移動するものであり、PBでお世話になった四隅大輔さんの提唱する、1gでも軽いものを選択するということに徹した。
1月にパリとモンサンミッシェルに同期生6人で旅行した。
ちょうど、目的地の気候環境が似通っていたので、衣服のコーディネートを含めデータの収集を行うこととし、5人がキャリーケースであったのに対し、1人Cote&Cielのバックパックで参加した。
後日、ある程度の想定はしていたが、シティファッションのダウンジャケットはボリュームの割に保温性が低く、アウトドアブランドのインナーダウンを購入+ウィンドブレーカーに、パック内部も従来はホテルのランドリー袋などを衣類分けに使用していたが、全面見直し、小分け用のスタッフパックを導入することにした。
昨今のアウトドアグッズの充実ぶりは、10年前の比ではない。
メインのパックは、昨年、メルカリで落とした、ficoutureの55Lサイズに決めた。
旅の予定日数は12日間であり、少々控えめな容量であるが、僕の背負える最適な重量とか、機内持ち込みなどを考慮したうえである。
完全防水でシンプルなパックである反面、サブポケットなどは一切無い。
このパックを使いこなすには、小分け用のスタッフパックは必須のアイテムである。
軽くて薄い、柔軟性に富んだ上質のスタッフパックは、バックパック内部を隙間なく満たし、バランスの崩れを防ぐ役割も担う。
カメラ用のサブバッグも必要であった。
長いこと、一眼レフカメラはbillinghamのポーチに入れ持ち歩くのが常であったが、前述のようにバッグパックにはサブポケットの類が一切無いので、ボディバッグの機能を併せ持つものを探した結果、Loweproのショルダーバッグに辿り着いた。
December.15.2017
ノーベル平和賞は、過去の功績を讃えるために与えられるものではない。
未来への願いを込めて、贈られる期待であると、解釈するのだという。
November.1.2017 at Tokyo
ほぼ毎水曜日に様々なジャンルのスピーカーを呼び開催されるピースボート勉強会(地球大学の一環で乗船の有無に関わらず受講可能)、今回のタイトルは、ピースボートが2007年から活動に携わるICAN(International Campaign to Abolish Nuclear Weapons)がノーベル平和賞を受賞したことに伴う緊急企画、「今こそ聞こう 被爆者の声」である。
ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)とは、Wikipediaには、各国政府に対して、核兵器禁止条約の交渉開始・支持のロビー活動を行う目的で設立された国際的な運動の連合体であると記されている。
ピースボートが果たしてきた役割のひとつは、核兵器の非人道性の土台である、広島・長崎の被爆者たちの声を世界に伝えることであるが、メディアを含む大勢の人で埋め尽くされた広い会場に、被爆者の生の声を聞いたことがある人は半数もいなかった。
という僕も、被爆者の方から証言を聞く機会を得たのは、2年前に参加したPeace & Green Boatが、原爆が投下されて70年後の長崎に寄港したからであった。
「原爆が落ちた」という表現は適切でないようにおもう。正しくは、核爆弾は空中で炸裂するのであり、360度、摂氏何千度という熱線とすさまじい爆風が襲い、それは突き刺すように骨をも貫通する。
「闇」というキーワードにハッとした。
原爆の象徴とされる「きのこ雲」は空から撮影されたもので、被爆者は誰も見ていない。逆も見えてない訳で、その瞬間、何が起こったかを知っているのは、被爆者だけである。
昨年の第92回地球一周クルーズでは、第9回となる被爆体験を世界に伝える証言の航海(おりづるプロジェクト)が実施され、数名の被爆者の方が共に乗船され、世界各地で原爆被害の証言を行う一方、船内でも様々な企画が実施された。
そして今回、核兵器の非合法化と廃絶を目指すICANが国際的に評価され、ノーベル平和賞を受賞したことにより、核の非人道性を訴え続けた、広島や長崎の被爆者の声を東京でも聞く機会に恵まれた。
語り部ひとりひとりの体験を共有する、より多くの人に耳を傾け、知ることが大切であるとおもう。
被爆者の声は、決して過去の事ではない、私たちの住む地球には、
人類を破壊する1万5000個もの核兵器が置かれているといわれ、※1)「核兵器を保有する者たちは、全世界を人質に取りその恐怖を与え、私たちを安全にするどころか、核競争への参加へと他者を駆り立て、紛争を生み出しています。
核兵器は権力者が他者を支配するための大量虐殺的でありかつ自殺的な兵器であり、私たちが核戦争を回避してこられたのは、分別ある指導力に導かれたからではなく、これまで運がよかったからで、私たちが行動しなければ、遅かれ早かれ、この運は尽きてしまう」
と、I CAN 事務総長のBeatrice Fihn(ベアトリス・フィン)さんは述べています。
※1)At the Nobel Peace Prize Award ceremony held on 10th December 2017 in Oslo, Norway.
September.11.2017
共に旅したメンバーが、訪ねて来ると嬉しい。
僕は見返りに何かを貰おうとはおもわない。
今までもらった幸せに感謝し、それを少しでもバトンできれば十分だ。
家は人々の幸せを生み出すためにあり、母も、きっとわかってくれると考えている。
世界は、日本のように、だれでもパスポートを取得出来、好きなところに行ける国ばかりではない。
そういう国に生まれたこどもたちは、外の人と接する機会も少なく、たとえ数年に一度でも、ピースボートが寄港し、会いに来てくれることを望んでいる。
小さいころ、遠い親戚が従妹を連れてやってきたりすると、わくわくしたということはないだろうか?
ピースボートを共に出し、実際に自分が訪れた国で、目にしたことは強く印象に残る。
おもしろいことに、交流の仕方も世代により、折った折り紙を与える者から、子供たちと一緒に走り回り、ボールを蹴る者まで様々であり、僕の参加したクルーズでは、寄港先で独自の交流にトライしたり、帰国後にスタッフとなった者も多い。
June.06.2017
ピースボートは様々な機会を提供する場である。
参加できることには積極的であったほうがいいと言われているが、僕は、Day 4に書き留めているように、映像を記録したいもしくは関心を持っておりスタッフを志す人たちへの初回講習が行われているとは知らずに、カメラへの興味からミーティングに参加しており、そのとき声をかけてくれた人がいて、映像チームに入り動画の撮影、編集等を経験させていただいた。
それは、単に技術を習得するということでなく、本当に良い時間であった。
僕の乗船したクルーズでは、船内情報番組「クルなび」の収録は、その日に何を伝えなければならないかだけを大まかにピックアップし、台本を用いない、いわゆるアドリブで行っていた。(そのときのCDさん次第で、台本を用意する場合もあるという。)
クルーズディレクターとパートナーの息の合ったトークも素晴らしかったが、驚いたのは、映像チームとの阿吽の呼吸であった。
映像のお仕事は日々のイベント撮影やお天気お姉さん(お兄さん)の収録、集めた動画の編集など多岐にわたるが、クルなび(スタジオ撮影)だけはチーフ自らビデオカメラを回し、常に一言一句を聞き逃すことなく神経を張り詰めていた。
わかりにくい言葉が入ったりすると、すかさず「カット」の声が飛び、撮りなおしである。
チームワークと信頼が、心に響く「クルなび」を作り上げていくことを知るのに、多くの時間は要らなかった。
えっ、僕ですか?
微妙な位置調整、セッティングをやっていました。
じつはクルーズの前半はアトランティック ラウンジ、後半はパシフィック ラウンジで収録していました。
バックの地図が違うんですね。
二人が使うテーブルも、時折違うものに入れ替わっていたりして、高さが異なると、壁との距離を調整して、なるべく同じに見えるようにするわけです。
毎日リアルなライブに接しているわけですから、素敵な時間を過ごさせていただいたとおもっております。
May.10.2017
地球一周フルクルーズ中の基本的な食事は料金に含まれておりますが、時にはゆっくり目覚め、香り高いコーヒーと厚切りトースト、或いはホットサンドイッチなどとともに、ちょっとだけ上質な時間を楽しむのはいかがでしょうか。
※ オーシャンドリームのカサブランカ・バーでは、朝食を逃した人などに有料で、トーストのモーニングやホットサンドを提供しております。
May.09.2017
帰国後1カ月はとにかく忙しく、感傷に浸っている時間は無かった。
12月ということもあったが、その中には、オーシャンドリーム号の見学会のお手伝いも含まれ、下船後も多くの92メンバーと関わり、話をすることが出来たのでマイナス志向に陥ることはなかった。
一方、古くからの親友のひとりは同じように高齢の親を抱えており、以前はよく彼の家に泊めていただいたりもしたが、母の亡くなったことを自分の親に知られるのを恐れてか、年明けから連絡が取れなくなった。
まあ無理もない。親を残して旅立つ理由など、人に分かる訳ない。
生命の限界を知り、互いに準備の時間をつくり、無力な治療から解放するには、この方法しかなかったのだ。
奇遇で、第92回クルーズには、僕と同じような余命知れぬ難病の親を抱えた若者と、帰国後すぐに肉親を亡くした若者が数名乗船していた。
比べてはいけないが、自分は親の夢をひとつでも叶えることが出来ただけ幸せであった。
やがて春が訪れ、第93回クルーズが南から戻って来た。
92から連続乗船した友人のひとりが、家に泊まりに来てくれた。いや、正確には、2人泊まった。
後日、その友人が再び家に来て、短い期間であったが、御衣黄桜を見に行き、次に日産本社グローバルギャラリーでレーシングゲームをした。
僕はやりたいことリストにあるジンギスカンを用意し、生まれて初めて2人でケーキもつくった。
庭に唯一残した年老いた梅の木が、今年も実をつけ、就職や学業復帰の便りも聞かれるようになった。