« | »

October.12.2005

北航路”今昔物語”(1)

今では宗谷本線のレールは稚内駅でスパッと切れ、最果ての情緒を醸し出しているが、’80年代初めにはその先の駐車場を突っ切り、公園を抜け、連絡船桟橋へと続いていた。むろん周囲は北防波堤(稚内ドーム)以外には公園もプールも無く荒地であった。
もともと稚内で連絡船とは1923年に航路開設した稚内と樺太の大泊を結ぶ稚泊航路鉄道連絡船のことを指した。終戦を迎えるまで稚内市は北方の玄関口であった。ちなみに桟橋が完成し稚内桟橋駅が開業する昭和14年(1939)までの間、現在の稚内駅は稚内港駅、南稚内駅を稚内駅と称していた。
初代宗谷丸は昭和7年12月竣工、同航路用に砕氷設備を備えた最新の客船として当時の横浜ドックで建造された。総トン数3,593t、稚泊航路の閉鎖後は青函航路に転じ、昭和40年まで働いたという。
利礼航路の歴史についてはこの場では割愛するが、記録には明治18年(1885年)、道庁の補助航路(鉄道や道路のない地域に定期航路の運航を命令するかわりに補助金を交付する)であった共同運輸(後日本郵船)の小樽~増毛間航路を延長して、宗谷、利礼航路としたと記されている。
手塩線(現宗谷本線)の建設は旭川方から始まり、1903年名寄まで開通した。1905年のポーツマス条約により南樺太が日本領となったため、宗谷本線は樺太への連絡鉄道として重要な役目を担うことになった。浜頓別回りで音威子府~稚内(現南稚内)間が1922年開通し、翌年稚泊航路が開設された。(前述)
稚内と利尻、礼文両島を結ぶ三角航路は、1936年に開かれた。当時は鰊漁の全盛期で、乗客の大半は出稼ぎの漁業労働者であったという。
 
戦後の航路について記す。
旧ソ連はコルサコフを軍港都市と位置付け、一方ホルムスク(真岡)を海洋貿易港として整備、1973年にハバロフスク地方ワニノとの間に鉄道連絡船の運航を開始した。
1991年7月、ソビエト連邦崩壊を目前に稚内とコルサコフ市の友好都市提携が実現する。
1995年(平成7年)5月、ロシアの鉄道連絡船サハリン7号(5,025t)により稚泊航路が復活し、’96年からは小樽とコルサコフを結ぶ便も開設された。しかし、サハリン7号が故障し、航路は休止状態となる。
次に稚泊連絡船を引き継いだのは東日本海フェリー(現ハートランドフェリー)で、1999年から現在に至る。
2000年には小樽とホルムスクを結ぶロシア側の航路も開設されている。
 
樺太には何も残っていないと信じていたが、コルサコフを訪問する機会を得て、戦後稚泊航路の遺構をいち早く整理してしまったのは日本側であるということを知った。
 
(最終更新;2013年8月)

Trackback URL

Trackbacks

Comments

Comment





XHTML: You can use these tags:
<a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>