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March.25.2010

蘇る南薩鉄道の記憶

昨年で廃線から25年を迎えた南薩線をテーマとした企画展が薩摩半島の西に突き出た野間半島にある笠沙(旧鹿児島県川辺郡笠沙町)フィールドミュージアムで催され、話題を呼んでいます。(1月10日~5月31日まで延長)
企画した笠沙恵比寿は今から10年前、笠沙の魅力を広めようと町の若者を中心として生まれた、笠沙の文化・風土を楽しむことのできる施設です。
 
じつは連休初めの21日はNewにっぽん丸が横浜に於いてお披露目される日でした。
dolphinsクラブ(にっぽん丸のリピーター組織)からお誘いがあったものの、4日前になって届いた招待状の内容は信じ難く(高齢者に配慮なく見学過程で下りエレベーターの利用を停止)、足の悪い母のため交渉するも臨機応変な処置が得られず参加そのものを辞退し、鹿児島へ飛びました。
 
きっかけは南薩線が廃止される前年、地元出身の青年(当時)がこの列車で通学された思い出を作詞という形でレコードに残した「南薩線」の歌が、再製(DVD化)されることを知り、制作に携わった笠沙恵比寿・学芸員の方に頒けていただいたことでした。
(補足:学芸員とは、日本の博物館法で定められた国家資格を有する専門的職員です。)
 
もう30年あまり昔のことです。
僕の乗ったオレンジ色の流線形をしたディーゼルカーは、伊集院駅を出ると左にカーブを切り、国鉄線(当時)と別れるとすぐに暗い森の中に吸い込まれ、長いトンネルを喘ぎながら抜け、どこに出口があるのかわからぬ雑草に覆われた駅(上日置)に停車しました。
ひとつのローカル線はそれ自体が不思議な存在でしたが、それを取り巻く風景も印象深いものでした。
(今風に例えれば、スタジオジブリの世界です。)
この駅の構造は鉄道がなくなるまで大きな謎でした。
廃線の秋、YHで借りた自転車で小高い丘の上の同駅を訪れ、唖然としました。
ポッカリ空が顔を覗かせ、瓦の降ってくる危険な本屋(駅舎)を避け、人々は石を積み上げた給水塔と建物の隙間から出入りしていたのです。
付近には家が2軒くらいありましたでしょうか、それでもこの鉄道を必要とする人がいました。
僕の乗り降りした日置の駅は、町の中心から少し離れた、八幡神社の参道と交差する踏切から少し引っ込んだところにありました。
開業した頃は蒸気機関車が走り、火の粉による火災や汽笛の音に馬が暴れだすことなどを恐れたのでしょう。
この地にYHを開いたとうさん(YHのペアレント)は、国道(270号)に土地を提供するなら、南薩線を自分のところに引いておけばよかったと言っておりました。
YHの開設当初は、浸透せず薩摩湖のモーテルと間違われもしたようです。(爆)
多いときは、定員12名に対し、一晩に30人以上集まったのではないでしょうか。
じつはペアレントさんはウミガメ観察のために海の家を建て、ここだけはYHとして登録しなかったのでそちらに無料で宿泊させていたのです。
規則正しく走る南薩線は、YHの理念とも通じるところがありました。
一日の時間割は、列車の時刻で決められ、列車の時刻は、人々の生活によって決まっていました。
出迎えも見送りも、日置駅のホームに立ちみんなでやりました。
終点枕崎で指宿枕崎線に乗り継ぎ、半島を一周する車窓には、錦江湾に入港する日本高速フェリーのさんふらわあの姿もありました。
 
あれから四半世紀、モータリゼーションは人々の行動を拡げ、皆で揃って食卓を囲むことさえ、難しくなってしまいました。
駅への道しるべであった石敢当はどこに行ってしまったのでしょうか?

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